デジタル 365 第 6 回 人工知能やビッグデータの活用で急進する「精神科医療イノベーション」

人工知能(AI)の進化やビッグデータ活用の環境整備によって、これまでICTと縁遠かった領域でも、最先端のテクノロジーを駆使して難問に挑む動きが増えてきた。慶応義塾大学医学部の岸本泰士郎医学博士が率いるプロジェクト「PROMPT(Project for Objective Measures Using Computational Psychiatry)」は、その一つ。機械学習や音声分析技術などを活用することで、定量的な指標に基づく客観的な評価が難しかった精神科医療にイノベーションをもたらそうとしている。

周知のとおり、精神疾患は大きな社会課題になっている。厚生労働省の調べによると、うつ病や認知症など精神疾患を患う人の数は2005年に初めて300万人を超え、それ以降も目立った減少傾向がみられない。精神疾患のうち、うつ病の患者は90万~100万人台、統合失調症は70万人台、不安障害は50万人台で推移。高齢化が進んでいることもあり、2005年に17万人強だった認知症患者(アルツハイマー病)は6年で2倍以上に増え、2011年に36万人を超えた。

当然だが、ビジネスパーソンが精神疾患を患って長期の休職を余儀なくされることは、企業の戦力ダウンに直結する。その影響は、少数精鋭で事業を推進している中堅中小企業にとって無視できないほど大きい。

定量的な病状評価の“壁”がもたらす深刻な危機

そうした中、精神科医は日々たくさんの患者や家族と向き合い、治療に臨んでいる。それと同時に、どうしても越え切れない“壁”とも向き合い続けてきた。

「精神科領域は他の領域と違い、肺炎患者の胸部レントゲン写真が白く映るといった分かりやすいバイオマーカーがなく、重症度などを科学的に定量化することが現時点では難しい」。岸本医師はこう説明する。そのため精神科の診療は基本的に患者が話す内容や表情、動作などの観察から「患者の典型的な症状とどれほど類似しているか」「正常と考えられる範囲からどれだけ逸脱しているか」などを“読み解き”、病気の重症度や経過を判断する。どうしてもそれぞれの医師の肌感覚に頼らざるを得ないわけだ。

もちろん、興味の減退や疲れやすさに関して患者へ質問し、回答内容によってスコアを付けるレーティング手法は確立されている。しかし、それも病状を定量的に評価する手段として、必ずしも万能とは言い切れない。例えば4段階で評価する項目について2点や3点の境目の定義はあるが、「インタビューする際の患者の気持ちはさまざまで、評価者も一定程度のバイアスを受けることがある」(岸本医師)。

定量的な病状評価の壁は、適切な治療開始時期や治療方法の見極めを難しくするだけでなく、効果的な新薬の開発にも影響を及ぼしている。前述のとおり精神疾患の患者数は国内だけでも300万人以上と多く、製薬メーカーにとっては貢献しがいのある大きな市場のはず。にもかかわらず、撤退するメーカーが出てきている。新薬の効果を治験で測りにくいことが原因の一つだ。こうした状況に岸本医師は危機感を募らせる。「医者としては病気を直すための良い薬が出てくることを望んでいるが、それが困難な状況になりつつある現状をかなり深刻に受け止めている」。

機械学習したコンピュータが、うつ病患者と健常者をほぼ確実に判別

精神科医療が抱えるこうした課題を解消すべく、PROMPTでは表情センシング技術を持つオムロンや自然言語処理に強いアドバンスト・メディアと共同で、新たな医療機器システムの開発を進めている。具体的には、声のトーンや発話内容、表情や体の動きなど、医師が病状を判断する際に観察している患者の情報をクラウドに蓄積。自然言語処理や画像解析技術を使ってリアルタイムで病状を解析し、高い精度で定量的に重症度を判断できるAIアルゴリズムを開発している。

2015年11月にプロジェクトがスタートして1年半にも満たないが、すでに一定の成果が出始めている。PROMPTでは複数の精神疾患患者と健常者の協力を得て300件のデータセットを日本マイクロソフトのクラウドに蓄え、データに含まれる特徴と病気との関係をコンピュータに学習させる機械学習によって病気か否かを見極めるアルゴリズムを作った。アルゴリズムの精度は現時点で公表していないが、「かなりの精度で患者と健常者を区別できるレベルに仕上がっている」(岸本医師)という。

例えば、音響学的データを解析するアルゴリズムは、うつ病と健常者を高確率で判断できる。これに表情解析などの結果を組み合わせれば、定量的評価の信頼性は一段と高まる。実は表情解析に関して岸本医師は「うまくいくか懸念していた」。普段から笑顔の人もいれば、怒ったような表情の人もいて、元々の個人差が大きいためである。しかし、結果的には「個人差を超えて患者の状態を正しく判別できそうだと光が見えてきた」(岸本医師)。

もっとも、プロジェクトはまだ道半ばだ。うつ病の重症度の評価や経過観察、認知症の兆候や進行具合を定量的に評価する新しい医療機器システムを完成させるまでには、取り組むべき課題が少なからず残っている。アルゴリズムの高度化は、その一つ。患者ごとの縦断的な経過の把握が大切な精神科医療に耐え得るシステムにするため、時系列でデータセットを蓄積し病状の変化を捉えられるようアルゴリズムを進化させることが欠かせない。

「ELSI(エルシー)についても、十分に議論を深める必要がある」と岸本医師は強調する。ELSIとは倫理的(Ethical)、法的(Legal)、社会的(Social)に想定される諸問題(Issues)のこと。新たな技術が想定外の目的で悪用されないよう、対策を講じなければならない。PROMPTで開発するのはあくまでも、精神疾患の重症度を数値化する診断支援システム。ELSIのリスクを最小化する観点から、「開発したアルゴリズムやシステムは医師にしか使わせないよう作りこむ」(岸本医師)方針だ。

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